音楽が仕事になり「音楽鑑賞」の趣味が消えそれでも聴く音楽(後編)
前に、「音楽が仕事になると、純粋に音楽を聴く楽しみがなくなる」という記事をかきました。
デザイナー、シナリオライター、なんならゲーム業界以外も建築や演劇や映画関係者も。
見るものが「ライバルの作品」「仕事の分析すべき材料」となってしまう傾向がある、という話です。
それでも、色んな意味で「聴いてしまう」音楽はあるのです。
単なるポピュラーミュージックではなく、少し違う横顔を持った音楽が並ぶ予定。ぜひ、みなさんのラインナップにも加えてみてください。少し、不思議な世界かもしれません。
それでも聴いてしまうわけは?
仕事に絡むと聴けません、と言いながらも「聴ける」音楽。
分析すると理由はいくつかありました。
(1)分析するのも野暮な自然な音楽
(2)分析したけど無理!ごめんなさい!
(3)もはや総合芸術、土下座します
だいたいこの3パターンかもしれません。
一つずつ見てみます。
(1)分析するのも野暮な息をするような音楽
これは、いくつかある理由のうち、一番原始的なものです。
音楽というのは人間が作曲すれば、何らかの意図があり、何らかの構造設計があり、それが形になります。
アドリブ、というものがあります。与えられた条件の範囲で、思うがままにリアルタイムに音を出していく。これも、もちろん理論の裏付けがありテクニックがあり引き出しがあればそれだけ高度な音が作れます。
このアドリブの最上流。
自分も良くやるのですが、特に何も考えず、ただ手が動いている状態。ピアノの練習室が学生時代根城だったのですが、そこに入った時がそんな感じ。何を弾くわけでもなく、ただただだらーっとした時間で手が動き続けている状態。
自分の場合は高度な音楽にはなってなかったと思います。未熟だし技術もないし引き出しも少ないので。
でも、達人たちがそんな感じにやったらどうなるでしょう。
本当にそのように作曲してそのようにレコーディングしたかどうかは分かりません。でも、音を分析しようとすると、「おいおい、この気持ち良さの流れを分析してどうすんの?」と言われるような音に感じるのです。
それがこちら。
小野リサ
ボサノバの小粋な姉さん。産まれたときからこの音に身を任せ、息をするように楽に歌ってます。ギターもそれを支えるギリギリの力。どこにも力が入ってません。
(2)分析したけど無理!ごめんなさい!
スティーリー・ダン
高度×難解×複雑×実験的=でも、なぜかすっきり格好いい音
です。かなうわけありません。
スティーリー・ダン(Steely Dan)は、アメリカのロック・バンド。
主にドナルド・フェイゲンとウォルター・ベッカーによるデュオ体制で活動し、世界的な成功を収めた。2017年にベッカーが死去し、以降はフェイゲンのソロユニットとして継続している。
WikiPediaより
自分はガウチョが好きです。でも世間的には↓こっちの方が人気かも。
(3)もはや総合芸術、土下座します
といっても、大きい規模という意味ではありません。なんというか、テクニックや理論を越えて、もうその人がそのジャンル、みたいな感じ。
まずはこの人。
ジャンゴ・ラインハルト
たぶん、ポピュラーミュージックのギターの源流みたいな人かもしれません。定住せず音楽を生業にして移動生活をするようなグループがやっているような音楽から一歩抜け出たら、孤高の存在になったという感じのギタリスト。
ステファン・グラッペリというバイオリニストとのコンビももう誰も追従できないような関係を築き、2人で総合芸術を作ってしまった感じです。
ちなみに、幼いときの事故で、左手の指二本がうまく動かせないという状態で、このギターの音ですよ!
技術、完成度、発展性、唯一無二の音、どうしようもなく、自分で何もできません。できるのは土下座だけ。
ケンブリッジ・バスカーズ
大道芸人というジャンルになるんでしょうか。音楽もここまでできればもう楽しくてしょうがないだろうな。もちろん、ここまで到達できる気配もないので、こちらも土下座です。
まだまだあるんですが、今日はここまで。時々棚卸ししてみます。